7・8月合併号 いよいよ開幕! 夏の高校野球地方大会

夏の県大会2連覇と甲子園優勝を目指す日本文理硬式野球部

夏の県大会2連覇と甲子園優勝を目指す日本文理硬式野球部

日本文理(新潟)

昨年の決勝で“奇跡の猛反撃” 一丸で「甲子園に戻ろう」
安藤佑=文・写真

昨夏の甲子園で準優勝した日本文理(新潟)。「高校野球弱小県」とも言われながら、悲願の県勢初のベスト8突破を果たすと勢いは加速。決勝では敗れたものの、6点差を追う9回二死走者なしの場面から5点を奪う猛反撃を見せた。今、県予選を控えた部員たちは「甲子園に戻ろう」を合言葉に、日々、練習に励んでいる。

先輩の「つなぐ野球」お手本に

「来年はないという気持ちで、最後の甲子園のつもりで戦っていました」。昨夏の甲子園決勝で、反撃の口火を切る二塁打を放った主将の高橋隼之介(3年)=新潟・柏崎一中出身=は振り返る。スタンドで応援していた投手の長谷川智之(3年)=同・長岡栖吉中出身=は「最終回の攻撃にすごく感動しました。自分たちも先輩をお手本にして、あきらめずに『つなぐ野球』をしたい」と、秋の飛躍を思い描いていたという。

秋の県大会で悔しい敗戦

しかし、新チームとして初めて臨んだ9月の県大会では4位に沈んだ。「うれしい気持ちで新潟に帰ってきたのに県で負けて、この上ない悔しさでした」と、高橋は顔をしかめる。甲子園後、一度も練習試合ができなかったことや、相手からのマークが厳しくなったことが敗因だった。

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打者の要でもある4番の南優希。140キロの高めの直球を上からたたきつける打撃練習をする

打者の要でもある4番の南優希。140キロの高めの
直球を上からたたきつける打撃練習をする

川島(徳島)

“小さな野球部”の挑戦は続く
藤川満=文・写真

部員18人ながら、今春の選抜大会に21世紀枠で初出場した川島(徳島)。初戦で強豪・大垣日大(岐阜)に敗れたものの、延長にもつれこむ接戦を演じた。4月には16人の1年生が入部したが、練習環境の制約など厳しい状況に変わりはない。それでも部員たちは、もう一度甲子園に出場しようと、連日汗を流している。

選抜に部員18人で出場 自信を胸に「春より上へ」

選抜出場が決まるまでは、部員数が少なく校内では廃部も取りざたされていたという川島。4月には有望な新入生も入り、現在の部員は34人まで増えた。

ところが4月中、春の県大会を制した小松島との試合では、2−25の記録的大敗を喫してしまった。エース東谷祐希(3年)=徳島・鴨島東中出身=と4番の南優希(同)=同・鴨島一中出身=が、けがをしていた影響が大きかったが、「甲子園後で部員のモチベーションが低下していた」と、北谷雄一監督(33)は振り返る。貧打克服のため打撃練習に時間を割き、守備練習がおろそかになったのも敗因の一つだった。

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「もっと信頼されるマネジャーになることが目標」という井上陽平

「もっと信頼されるマネジャーになることが目標」という井上陽平

井上陽平(埼玉・花咲徳栄3年)

選手からマネジャーに転身 「全力でチームを支えたい」
川上純子=文・写真

甲子園にあこがれるのは球児だけではない。チームを支えるマネジャーも気持ちは一緒だ。花咲徳栄(埼玉)野球部の井上陽平(3年)は、選手からマネジャーに転身。選手が試合で力を発揮できるよう、毎日の練習で気配りや目配りを欠かさない。夏の大会を目前に、目標である「全国制覇」を目指しサポートに力が入っている。

チームメートの活躍が原動力

入学時、選手として野球部に入部した。「1軍でプレーできたら」と県内強豪校での活躍を夢見ていた。レギュラー陣のプレーにあこがれ、夢中で白球を追いかけていたが、1年生の秋に野球部長の名雲浩先生(47)から声を掛けられた。「マネジャーとしてやっていくことを考えてほしい」。何ごとにも誠実に取り組む姿勢を見込まれてのことだった。

何日も悩んだ末に決断

部員100人を超す大所帯の野球部で、レギュラーになれるのはほんの一握り。実力が足りないという実感はあった。だが「3年間野球を続けて、自分がどう成長するのか見てみたい」という思いもあり、戸惑いを隠せなかった。

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夏の地方大会 代表校はココだ!

手束仁=文

昨年は、中京大中京(愛知)が日本文理(新潟)の猛追を振り切って43年ぶりの全国制覇を果たした夏の高校野球。今年は、どんなドラマが待っているのだろうか。6月下旬から沖縄などで既に始まっている都道府県予選の有力校、有望選手をピックアップした。

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北海道・東北
北海道北照
青 森青森山田
岩 手花巻東
宮 城仙台育英
福 島聖光学院
関 東
群 馬前橋商
栃 木青藍泰斗
埼 玉浦和学院
東 京帝京
日大三
神奈川桐光学園
東海
静 岡常葉学園菊川
愛 知中京大中京
岐 阜県岐阜商

 

北信越
石 川星稜
福 井福井工大福井
新 潟日本文理
近 畿
滋 賀北大津
京 都立命館宇治
大 阪大阪桐蔭
兵 庫神戸国際大付
和歌山智弁和歌山
中国
岡 山関西
広 島広陵
山 口高川学園

 

四国
愛 媛今治西
徳 島小松島
高 知高知
香 川尽誠学園
九州・沖縄
福 岡自由ケ丘
佐 賀佐賀商
長 崎長崎日大
大 分明豊
鹿児島樟南

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「いつの日か五輪の舞台に立ちたい」という八木かなえ

「いつの日か五輪の舞台に立ちたい」という
八木かなえ

ピックアップ

重量挙げ 八木かなえ(兵庫・須磨友が丘3年)

見た目は普通の高校生 実は日本代表です
小野哲史=文・安藤佑=写真

日本女子重量挙げ界に期待の高校生がいる。6月の世界ジュニア選手権に出場した八木かなえ(兵庫・須磨友が丘3年)=兵庫・押部谷中出身=だ。競技歴3カ月で全国高校女子選手権に優勝。その後も、自身も驚くハイペースで成長しながら、アジアユース選手権優勝や世界選手権出場など、日本を代表する選手へと飛躍し続けている。

競技歴2年3カ月ぐんぐんパワーアップ

中学までは器械体操選手という異色のキャリアを持つ。約10年間続けた体操は、同世代の中でも全国トップレベルだった。しかし、「高校では新しいスポーツをやってみたい」と、オープンハイスクールでウエイトリフティング部の練習を見学。まったく未知の世界を目の当たりにし、「ただただ、くぎづけになった」という。

そのとき八木に、15Kgのシャフト(棒)部分だけを試しに持ち上げさせた横山信仁監督(61)は「(持ち上げる直前の姿勢を見て)これは物になる」と直感する。実際、高校入学とともに本格的に競技に取り組むと、体重40Kgにも満たなかったきゃしゃな1年生はメキメキと力をつけ、瞬く間に48Kg級の高校女王へと登りつめた。

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ジェフ千葉は現在、コーチを除くスタッフは約30人。就職は狭き門だけに情報収集は欠かせない。また大学などで語学や経営学などを勉強し、自分なりの武器を身につけておくことは就職する際、有利に働くことになる。

ジェフ千葉は現在、コーチを除くスタッフは約30人。
就職は狭き門だけに情報収集は欠かせない。
また大学などで語学や経営学などを勉強し、
自分なりの武器を身につけておくことは就職する際、
有利に働くことになる。

スポーツの仕事がしたい

プロチームスタッフ

チームを支える「裏方」 観客動員アップにも知恵絞る
斉藤健仁=文

プロ野球やサッカーJリーグ、バスケットボールなど日本各地には多くのプロスポーツ球団がある。ファンやサポーターとして、どこかのチームを応援している高校生も多いだろう。そんなプロ球団には、表舞台で活躍する選手以外にも球団職員、つまり「裏方」としてチームを支えている人々がいる。

Jリーグが開幕した1993年から参加しているジェフユナイテッド市原・千葉。来季のJ1再昇格を目指してJ2で戦っているクラブで、「ホームタウン」担当として働く本間一憲さん(30)に話を聞いた。

中学生のころから応援

—どうして現在の仕事に就こうと思ったのですか?

幼稚園からボールをけり始め、中学校から自転車に乗って地元のジェフを応援しに行っていました。高校生のころから「先生かサッカー関係の仕事に就きたい」と思い、順天堂大学に進学。サッカー部OBがジェフで働いていたこともあって「地元のクラブで働きたい!」と思うようになったのです。

—チームスタッフはどんな仕事をしているのですか?

スポンサー探しやチケット販売を担当する「営業」、試合やチームの「運営」、メディアの対応をする「広報」などです。わたしはトップチームの運営を7年ほど経験し、昨年から「ホームタウン」という部署にいます。

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「生徒に自分のところまで来させるのではなく、自分が生徒の目線に立つことを心掛けている」という小菅勲監督

「生徒に自分のところまで来させるのではなく、自分が生徒の目線に立つことを心掛けている」という小菅勲監督

監督の肖像

喜怒哀楽を前面に出し部員の目線に立って指導

小菅勲(茨城・下妻二野球部)
小野哲史=文・写真

かつて取手二の野球部員として、茨城県初となる全国制覇を果たした小菅勲監督(43)。今、下妻二(茨城)の監督として部員に何よりも伝えたいのは、かつて自身が実感した「野球を楽しむことと、甲子園の素晴らしさ」だという。部員の自主性を大切にしながらも、日々、彼らの目線に立ってともに汗を流している。

1984年夏、超高校級といわれた桑田真澄や清原和博擁すPL学園(大阪)を破り、約3700校の頂点に立った。そのメンバーだった小菅監督には、将来は指導者になりたいという思いがあったが、「思わぬ優勝だったので、少し燃え尽きてしまった」と当時を振り返る。

勝負に懸ける姿勢を学ぶ

卒業後、いったん野球を辞めて社会人として働き始めたものの、職場近くにできた新設高校の野球部のコーチを頼まれたことが、野球人生の再スタートとなった。「最初は1年生部員だけで、手取り足取り教え、まだわたしも若かったので一緒になって騒いでいました」

それが指導者になるきっかけだとしたら、指導のノウハウを学んだのが、常総学院(茨城)でコーチを務めた2年間である。指揮官は取手二時代の恩師・木内幸男監督(78)だった。「偉大な方ですし、自分の直接の恩師でもある。練習方法や戦術など、いろいろな面でわたしの土台になっていますが、一番は勝負に懸ける姿勢。妥協は一切しませんし、これでいいやというのもない。野球に懸ける思いがあれほど強い人はそうはいません」

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