メジャーリーグの元サンフランシスコ・ジャイアンツのバリー・ボンズが、禁止薬物に絡む疑惑でアメリカの連邦大陪審に起訴された。
ボンズは2001年に73本のホームランを打って、マーク・マグワイアの70本のシーズン本塁打記録を破り、今年の8月にはハンク・アーロンの755本の通算本塁打記録も塗り変えた。そういう選手が薬物使用を疑われているのである。
ボンズ自身は一貫して否定しているが、元恋人はつぎのようにいっている。
「98年に70本を打ったマグワイアへのしっ嫉と妬心からステロイド使用をはじめた」
ところが、そのマグワイアも薬物使用を疑われていて、引退して野球殿堂入りの資格ができたにもかかわらず、投票する記者がすくなくて殿堂入りを果たせないでいる。
その一方で、シドニーオリンピックの女子100メートルで金メダリストになったマリオン・ジョーンズのように、薬物使用を告白する選手もいる。それで彼女は金メダルをはく剥だつ奪されたが、この10月の会見で良心のかし呵ゃく責に耐えられなかったと涙を流した。
彼女の気持ちはよく分かる。彼女の金メダルは薬物が彼女を動かして獲得したもので、彼女が獲得したものではなかったのである。そのことを彼女ほどよく分かっていた者はいなかった。にもかかわらず、彼女は自分の力で獲得したふりをしなければならなかったわけで、そのことに耐えられなくなったのだろう。
そういうことはぼくらの日常でも考えられる。薬物ではないが、たとえばぼくが小説に行き詰まったとき、深夜に1人で酒を飲んで、酔いの力でつづきを完成させたとしよう。むろん、翌日になって読み返すと読むに耐えないものができているのだが、かりにそれでいいものができたとしても、それは酒が書いたので、ぼくが書いたのではないのである。
ジョーンズの金メダルと同じで、原稿料はもらえるかもしれないが、自分が書いたという本当の満足感は得られまい。
ボンズやマグワイアはどうなのだろう。もし薬物の力でホームランを打ったのなら、彼らだけが知っている心の穴は一生埋められないだろう。
(作家)